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→壁登り編


荒れ果てている商店街の一角、噂通りの場所に件の人物はいた。黒いマントと甲冑に身を包み、髪の色まで全て黒で統一されているその男は、眠っているかのように静かに目を閉じてそこに座していた。しかしラムダの足音に気が付くと顔を上げてその姿を見やり、待ち侘びていたように呟く。 「……君がラムダ・メリックか」  褐色の肌に金髪金眼、幼い頃に付いた額の傷を隠す為にバンダナを巻いている20歳前後の青年。予想以上に情報通りの人物を目にして、パイロンは少し安堵したように溜め息を吐く。 「アンタ、ここに来てから何人に襲われた?」  よく見ればマントは土埃で汚れ、顔にもいくつか新しい傷がある。ゆっくり眠る間もほとんどなかっただろう。 「数えてはいないが、流石に疲れたな」 「さっさと帰れ。二度とここには来るな」 「そうはいかない」  間髪入れずに放たれたパイロンの返答に、ラムダは表情を引きつらせる。立ち上がったパイロンの身長はラムダよりも頭一つ分高く、見上げる形になった事も彼の神経を逆撫でする要因となった。貧民街で生まれ育った者達はその栄養状態の悪さのせいで小柄な者が多い。ここでは比較的大柄な部類に入るラムダも、恵まれた境遇の上の者には敵わないのだと改めて示されているかのようだった。 「私の名前はパイロン・ケロア。教会に仕える騎士だ。君の力を貸して欲しい。一緒に来てくれないか」 「意味わからねぇ事抜かしやがって……嫌だと言ったらどうする?」 「……出来れば穏便に済ませたい」

その言葉は宣戦布告として十分だった。体格はパイロンに分があったが、ラムダには幼い頃から厳しい環境で生き抜いて来たという実績と自負がある。こんな温室育ちのハリボテに負ける訳がない。口で言わずともそれは瞳にありありと現れていた。拳を握り、敵を見据える。音は遠ざかり、怒りすら消え失せ、意識が研ぎ澄まされていく。  数秒間時が止まったかのように睨み合っていたが、一陣の風が土埃を上げながら二人を包むとその機に乗じてラムダが動いた。素手では甲冑相手には不利だが、顔ならば無防備だ。一撃で決着がつくという自信があった。今までラムダの一撃を食らって立ち上がった者はいない。  当然顔を狙ってくるのはパイロンも分かっていた。ラムダの拳を弾き飛ばすべく片腕を振り上げる。初めに遭遇した少年のナイフを叩き折ったのと同じ動作だ。まともにぶつかり合えば生身の腕が負けるとラムダは瞬時に判断し、弾かれた拳の軌道はあっけなく上に逸れる。その時には既にラムダの視線は違う物を捉えていた。パイロンが腕を振り上げると同時に翻ったマントの中、腰に下げられた剣。ラムダは素早く体を捻ってその剣の柄を掴むと、金属の擦れる鋭い音を響かせながら後ろへ飛び退いた。

「へへ、騎士だか何だか知らねぇが、剣盗られちゃダメだろ、オッサン?」  物陰から見物していた野次馬達から歓声が上がる。それに気付いたラムダは口をへの字に曲げるが、歓声が彼への賛辞だったのでひとまず無視をする事にした。  狙いが剣だと予想していなかったが、パイロンは残された鞘を一度見下ろしただけで別段取り乱す様子はない。  奪った剣はずっしりと重く、美しい装飾が施されており刃こぼれもなく綺麗だ。売ればかなりの値打ち物であろう事が窺えた。しばらく食う物にも困らないだろう。 「さーてどうする? 今ならこの剣一本で見逃してやっても良いぜ?」 「その剣はくれてやっても良いが、このまま引き下がる訳にはいかなくてな」  思わぬ収穫に少し機嫌を良くしたラムダが提案するが、パイロンの意思は変わらない。 「チッ……しつこい野郎だ!」  奪った剣を携えて再びラムダは地を蹴る。いくら甲冑を着込んでいるとはいえ、剣撃をまともに食らえば無事では済まないだろう。剣など扱った経験はないが、要は金属の塊だ。ぶん殴ればいいのだ。  パイロンの右肩に向けて力任せに剣を振り下ろす。パイロンはわずかに身を引くと腕を回してマントを翻した。大きく広がったマントが振り下ろされた剣を巻き込むと、パイロンは分厚い布ごしに刃を掴んで強引に引き寄せる。 「クソッ!」  ラムダは思惑に嵌ってしまった事に舌打ちをしたが、そのまま剣を放さず引き寄せられた勢いのままパイロンの腹に強烈な膝蹴りを食らわせた。馬に蹴られたかのような衝撃を受け、パイロンはよろめいて地に膝を着く。しかし先に悲鳴を上げたのはラムダの方だった。 「いってーッ! クソーッ!」  甲冑相手に思い切り蹴りを叩き込めば、当然それ相応の衝撃が生身の足に跳ね返って来る。それを承知での悪足掻きだったが、報いは予想以上だった。ラムダはそのまま片足を抱いて地面に倒れ、そこからビリビリと響く痛みに耐えた。これではしばらく立ち上がれない。

「……悪いな、この剣は祭事用で切れないんだ。それに、君も剣の扱いには長けていないようだ。せっかくの俊敏さを殺してしまっている」 「うるせぇ! 俺を分析するな! 鎧なんか着やがって、ずるいんだよ!」 「そうだな。君がきちんとした装備と訓練さえ積んでいれば、負けていたのは私だ」  パイロンが取り返した剣を鞘に収めるべく体を捻ると、蹴られた腹に鈍痛が走った。愛用の甲冑は見事に凹んでいる。生身であれば骨を砕かれ内臓も潰れ昏倒するほどの威力だっただろう。言葉に偽りなく、倒れていたのはパイロンの方だ。 「だからこそ、君にはきちんとした装備と訓練を受けてもらいたい。もっと強くなりたくはないか?」 「は?」  ラムダはぽかんと口を開け、涙の滲む目でパイロンを見上げた。太陽を背にした彼の表情は良く見えない。 「立てるか? ほら、肩を貸すから立て。足の治療もするし、飯も食わせるし、住居も用意するし給料だって払う。他に何か欲しい物はあるか?」 「……ア、アンタ、何しに来たんだ?」  差し出された手を怪訝そうに見つめながら、ようやくラムダはパイロンが貧民街を訪れた理由に興味を持つに至った。 「君の噂を聞いて腕を試しに来た。君の素質は素晴らしい。是非とも君を新設する騎士団に迎えたい」 「な? き、騎士団? ……俺を捕まえに来たんじゃないのか?」 「そんな事一言も言っていないだろう。それより、君は何か捕まるような事をしたのか?」 「あ、いやそれは……ハハハ、別に!」  パイロンの切り返しに、ラムダは口ごもりながら大袈裟に笑ってごまかした。思い当たる節がありすぎる。

ようやく足の痛みも落ち着いたようで、差し出された手を掴んだラムダは立ち上がり、パイロンの肩を借りた。 「あーイテェイテェ。騎士団だかなんだかは置いといて、とりあえず治療費と飯はもらわねぇとな。ここには医者もいねぇし美味い飯屋もねぇんだよ。オッサンのオススメ連れてってくれよ。あとやっぱりその剣よこせ。さっきくれるって言ったろ?」  ラムダの捲し立てるような図々しい要求に、パイロンは困ったように笑いながらも断りはしなかった。 「剣はもっと良い物をやる。ただし、後でしっかり今までの悪事も洗いざらい吐いてもらうからな」 「……えっ?」  昔の悪事まで追及される事はないと思っていたラムダは、表情を引きつらせながらどうにか逃げる手段を探したが、しっかりと服も掴まれているし、どの道この足では逃げられない。

「……連れてかれちまったぞ……」  見物に来ていた仲間達の不安げな視線がサットに集まる。このグループのボスはラムダだが、実質的なまとめ役は年長者であるサットが担っていた。 「見ててわかんねぇのか、アイツは負けたんだ。うだうだ言ってねぇでメシでも調達してこい」  サットの変わらぬ態度を目にした仲間達も落ち着きを取り戻したようで、各々いつもの生活に戻っていった。誰がいなくとも、生きている限りは腹は減るのだから。


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