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←出会い編


騎士団へと請われたラムダはひとまずクラン市民としての基本的な一般教養を身につけるべく、パイロンの邸宅であるケロア邸で暮らす事になった。初めは騎士団の寮での生活を予定していたが、ラムダの場合いきなり集団生活に放り込むのはあまりに危険だとパイロンは判断した。寮にはパイロン隊以外の騎士団員や教会の修道士もおり、管轄の違う彼らとのトラブルはなるべく避けたかったのだ。

ラムダ本人は騎士団への入団を了承した訳ではなかったが、貧民街にいては体験する機会のない“上”の生活には大いに興味があり、大いに楽しんだ。  まずは食事。好きな時に好きなだけ……という訳にはいかないが、決まった時間に食事がもらえる。しかもその食事が美味い。次に寝床。雨も風も動物も入ってこない綺麗な部屋で、ふかふかの暖かい布団で眠れる。とまあクラン市民としては至って一般レベルの生活なのだが、貧民街しか知らないラムダにとっては天国のような生活だった。

初めは飽きれば金品を持って逃げ出してやろうと考えていたが、食事と寝床の心配のいらないこの生活はどうにも捨てがたい。机に向かっての勉強は面倒だったが、ほどなく始まった訓練はラムダにとって日々の大きな楽しみになった。特に団員達との手合わせは彼の闘争心を満たしてくれる良い娯楽だ。生まれながら闘争の日々を過ごしていた彼にとって、戦う事は食事や睡眠に並ぶ生活の一部だったのだ。

訓練を終え、シャワーで汗を流してケロア邸へと帰る。この充実した日々の最後を飾る楽しみがラムダにはあった。 「おかえりなさいラムダおじさま!」 「ただいまリリィちゃん! 結婚式いつにする?」  パイロンの娘、リリィが玄関から飛び出してラムダの足に抱き着いた。彼はその小さな頭をこれでもかと撫でくり回すと、両手で抱きかかえて頭上に掲げる。 「……リリィが5歳になるまでにその挨拶はやめてくれ……」 「なんでー!」 「やだー!」  二人の返答にパイロンは軽く目眩を感じて額を押さえた。この男はリリィの前では貧民街で出会った時の殺気立った顔も訓練の際に見せる覇気も消え失せ、まるで幼児のようになる。そのおかげで根は悪人ではないとはわかったし娘と遊んでくれるのはありがたいのだが、『結婚』というワードを目の前で連発されるのは流石に父親として抵抗が強い。心の準備をしておくにしても早過ぎるというものだ。まだ3歳なのに。 「それにしても、お前がこれほど子供好きとは意外だった」 「ああ? 俺が子供をいじめるような奴に見えるってん……ですか? 俺が仕切ってた連中だってほとんど子供ですよ」  リリィを寝かしつけた後、ラムダは机に向かって日課である読み書きの練習をしていた。話し言葉にはそれなりに気を付けるようになったものの、文字を覚える気はあまりないらしく、練習といっても何も考えずただ機械的に手を動かして文字の形をした図形をなぞるだけだ。 「いやでもあんなに小さい子はいないや。こんなに小さいんだなって思ってさ。ホント可愛いよ。……守ってやりたいって思う」

教会の司祭であり騎士でもあるパイロンや他の騎士団の面々にとって、信仰心を持たず戦いそのものを楽しむラムダの存在は異質であり、規律を乱すという意見もあった。しかし語り合い打ち解けていく内に、信じるものは違えど弱い者を守りたいという想いは同じであり、信頼に値すると皆が感じていた。  戦いにおいても天賦の才と言うべき身体能力と瞬時の判断力で周囲を驚かせ、初めこそは連携を苦手としていたがそれはただ不慣れであっただけで、数回ですぐにコツを掴み完璧な連携をこなすようになっていた。 「で、いつ騎士にしてくれるんですか?」 「……その様子ではまだしばらく見習いだ。そうだ、明日にはお前の装備が届くようだぞ」 「お! トクチューのやつですか。楽しみっすね。早く使ってみたい」 「使いたいからといって人を殴るなよ」 「わかってますよう」  ラムダは席を立つとその場でステップを踏みながら素早く拳を繰り出し始める。彼は剣術や弓術などありとあらゆる戦闘術を貪欲に学び、その全てで人並み以上の技術を身に付けたが、その上で最終的にはやはり肌に合う格闘術を選んだ。そしてそれを活かすための武器として手甲と足甲を自ら設計し、製作を依頼していた。それだけにその完成をとても楽しみにしていたのだ。 「よし! 寝ます! おやすみなさい!」  逸る気持ちを拳に乗せて一通り喜びの舞を披露した後、彼は客室へと戻った。読み書きにもこれくらいの熱意を持ってくれればとため息を吐きつつ、パイロンも彼の勉強机を片付けてから寝室へ向かっていった。

翌日、騎士団の訓練所ではサンドバッグを力強く殴りつける音が響き続けていた。金色に輝く手甲を嵌めた左右の拳を素早く叩き込み、軽やかに跳んだかと思いきや体重を掛けた回し蹴りを決め、流れるような動作で着地と同時に再び拳を叩き込む。 「いい加減休んだらどうだ?」  滴り落ちる汗を見かねたパイロンがタオルを差し出す。特注装備の届いた昼頃からこの音が鳴っている事には気付いていたが、日が傾いても延々と続いていたので流石に様子を見に来たのだ。パイロンの一声で音は止み、ラムダは時計を見てから差し出されたタオルを首に掛けた。 「壊れたかと思ったぞ」  ラムダはきょとんとして手甲や吊られたサンドバッグに視線を移す。 「壊れてないですよ?」 「お前がだ」  次の瞬間、図ったようにサンドバッグの縫い目が破れて中身の布切れが溢れ出し、辺りに砂埃がぶわりと舞い上がった。 「あーっ! 壊れた! ごめんなさい!」 「壊れたな……とりあえず外に運ぼう」  その場にいた数人でこれ以上中身が零れないように破れた部分を支え、屋外まで引きずっていった。全員が砂埃まみれになり、お互いの姿を指差して思わず笑い出した。特に一人だけ多く汗をかき尚且つサンドバッグのすぐ傍にいたラムダは顔にまでびっしり砂埃が貼り付いていて、これには物静かなパイロンもつい破顔してしまった。 「隊長にまで笑われた! でもほら、すごいだろこれ! こんだけやっても手は全然痛くないし、軽いから動きも鈍らないし疲れないし、指も動かせるからこうやって付けたまま物だって持てるし!」  汚れた顔のままはしゃぐラムダに皆笑いが止まらなくなり、パイロンも緩む頬を隠すように片手で口元を覆った。 「指を開くとここが上がるんだ。で、内側の手袋には滑り止めがしてあるからほら!」  尚もラムダは自慢の特注装備のこだわりポイントを語ると、突如訓練所の壁に向かって跳び上がる。ほとんど凹凸もない垂直な壁を蹴り、二階の窓枠の僅かな段差に指を引っ掛けてまた跳び上がり、その勢いのまま最後には横っ跳びをして隣の窓のベランダに到達した。全員の笑いが止まり、驚嘆の声と拍手が上がる。 「ラムダ」  気を良くして階下の歓声に向かって手を振る彼に拍手を送り、一息置いてからパイロンは声を掛けた。 「壁は」 「はい?」 「登るな」 「はい」  数人から再び忍び笑いが漏れ、ラムダが引っ込んだ窓から「うわ、そのまま入ってくるなよ!」という声が響くと、結局我慢出来ずに皆再び声を上げて笑い出した。


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