① →②
→壁登り編
ありとあらゆる物と人が集まり、昼夜問わず休む事なく活動し続ける大都市クラン。一方、その陰で華やかさと忙しさから取り残され、半ば廃墟と化しているこの場所はクラン旧市街地、通称“貧民街”である。急速な都市化に置き去りにされ、迷路のように複雑で無秩序な路地と建設途中で放棄された廃墟の立ち並ぶ街だ。 しかしこんな街にもまだ住人はいる。貧民街の名の通り、破産して住家を失った者、様々な理由で国を追われた者、何らかの罪を犯して身を潜める者――そういった何かとワケ有りな人々がここへ流れ着く。
「オッサン、命が惜しかったら有り金全部置いて行きな」 都市部からほど近い大通りの真ん中で、白昼堂々ナイフを突き付けられている男がいた。この街では決して珍しい光景ではない。貧民街に法の庇護はほとんど及ばない。そしてこの大通りは、都市部から零れ落ちて来た者が何も知らずに迷い込み、手荒い洗礼を受ける事で有名な場所だった。住民にとっては絶好の狩り場というやつだ。 足元まですっぽり覆い隠すような丈の長い漆黒のマントを身に纏った男は、人目もはばからずにナイフを突き付けてくる少年に目を向けた。見たところ年齢は15歳くらいだろうか。まだ顔には幼さが残り、手足は干からびた木の枝のようだ。 「……ラムダ・メリックという男を知っているか?」 「はァ? 何言ってんだ? 知り合いかよ?」 向けられた刃など見えていないかのような男の態度に少年はたじろぐ。優位なのはこちらだと改めて示すようにナイフを男の眼前に突き付ける。 「知っているなら、ここに来いと伝えてくれないか」 「ふ、ふざけんな!」 尚も余裕すら見える態度を崩さない相手に焦りを覚えた少年は、ナイフを握った手に力を込める。しかし鋭い金属音と衝撃の後、少年は手にしたナイフがもはや使い物にならなくなった事を知った。根本から綺麗に折られた刃が回転しながら宙を舞い、土煙を巻き上げながら地面を跳ねていく。 「ラムダ・メリックをここに呼んでくれ。私の名前はパイロン・ケロアだ。そう伝えてくれ、待っている」 パイロンは黒いガントレットに覆われた右腕をゆっくりとした動作で再びマントの中にしまう。それを目にする前に、少年は柄だけになったナイフを投げ捨て脱兎の如く逃げ出していた。 パイロンは少年の後ろ姿をじっと見つめながら深く溜め息を吐く。年端もいかない少年が、白昼強盗を働かなければ生きていけない貧民街の現状を静かに嘆いた。少年の姿が見えなくなると、打ち捨てられる前は何かの商店だったらしい建物の軒先で石壁を背にして座り込み、先程の少年が目的を果たしてくれるよう神に祈った。
「ラムダさんっ!」 貧民街の一角にある廃墟に、少年は瓦礫に蹴躓きながら一目散に駆け込んで行った。踏み付けた建材から粉塵が舞い上がり、天井の穴から差し込んだ日光に照らされてキラキラと光った。 「何だよ、うっせぇな」 薄暗い廃墟の奥、数人分の人影の中から一人の男が体を起こし気怠そうに返事をする。健康的な褐色の肌と、それとは対照的な明るい金の髪と瞳を持つ青年だ。その姿を視界に捉えた少年がすがるように駆け寄って来る。 「ラムダさん、上から変な奴が来てアンタを探してるよ! ナイフ、折られた!」 “上”というのは、クランの都市部を指す。貧民街の住人は惨めな自分達を卑下するようにその名称を使う。 ここにたむろする少年達は流民ではなく、親の世代、もしくはもっと前の世代から貧民街に取り込まれた者達の子孫だった。生まれた時から貧民街で過ごし、貧民街の暮らししか知らず、それ以外の場所で生きる術を知らない。上は憧れの世界であり、未知の異世界のようでもあった。 神の御加護かはたまたただの幸運か、パイロンは目的の人物であるラムダのグループに属する少年と接触をしていた事になる。
少年から一部始終を聞いたラムダは、興味ないと言わんばかりに大きな欠伸をした。横にいた隻眼の青年が茶々を入れる。 「おいおいラムダ、遂に上でも何かやらかしたのか? 名前までバレてるとは相当だな」 「知らねぇよ、何もしてねぇ」 ラムダはそう告げると、再びその場に寝転がって目を閉じた。ボロ布を数枚敷いただけの固い床だが、彼らにとっては雨風をしのげる立派な寝床だ。 「行かないのか? 牢に入れば少なくとも飯には困らないぞ?」 「バーカ、誰が行くか。ほっとけほっとけ、そのうち帰るだろ」 この貧民街に一人きりで取り残される事は死に等しい状況だ。特にあの場所ではすぐに住人達が目を付け、少しでも隙を見せれば一斉に襲いかかって来る。一時は撃退出来ても、休む間もなく次のハイエナが来る。どんなに腕の立つ者でも、いつまでも相手をしていられるものではない。
翌日になると、パイロンの噂は貧民街中に広まっていた。未だに件の場所にとどまっており、襲いかかって来る住人を撃退し続けていると。 その翌日も更にその翌日も彼はそこにいて、ラムダを待ち続けた。座りながら隙を見せぬよう少しずつ眠り、持ち込んだ携帯食糧を齧って飢えをしのいだ。 「よぉ、オッサン。健気なこったな」 予想外の方向から聞こえた声に、パイロンは反射的に腰の剣に手をかけた。振り返った先、塀の上にしゃがむ隻眼の青年と目が合う。声を聞いて遂に本人登場かと一瞬期待したが、その容姿は事前に入手したラムダ・メリックの情報とは合致しない。 「ラムダ・メリックを知っているか?」 隻眼の青年はパイロンが剣の柄に手をかけている事に気付くと、敵意はないと示すように両手を上げて見せる。あわよくばラムダのフリをしてからかうつもりだったが、パイロンの反応を見る限りその思惑は外れたようだ。 「なんだ、名前だけじゃなく顔も知ってるって訳か。アイツはお前の事全く知らねぇって言ってたが、あのバカの事だからどうだかな。アンタの事情によっちゃハナシつけてやっても良いぜ?」 「いや、私も彼との面識はない。それに、すまないが君に事情を話す事も出来ない」 もちろん彼を騙すなり捕らえて案内させるなり、方法はいくらでもあった。しかしパイロンはそれを良しとする人物ではなかった。彼は人々を守る騎士として、そして神に仕える身として、正しい行いにはそれ相応の正しい結果がついてくるのだと強く信じていた。 「ああそうかよ、じゃあ今日の事はなかった事にするぜ。わざわざ来て損したな」 恐らくこれ以上話しても、パイロンは本人を呼べの一辺倒だろう。暇潰しにもならない事を悟った青年は、隻眼とは思えない足取りで傾きかけた塀の上を器用に歩き、パイロンのいる大通りとは反対側の路地へと飛び降りた。 「まるで猫だな」 「それ、褒め言葉か?」 ふと口をついて出た言葉に塀の向こうから返事があった。 「いや、ただの感想だ」 その答えを聞いたか聞かずか、それ以降返事はなかった。
ラムダを待ち続けるパイロンの噂に今では尾ひれ足ひれが付き、ありもしない関係をでっち上げられ下卑た笑いが貧民街に広まり始めていた。貧民街ではそれなりに知れている自分の名が貶められている。それをいつまでも放っておけるほど彼は寛大ではなかった。 ラムダは住家にしている廃墟を後にすると、入れ違いに外から戻って来た隻眼の青年に出くわした。 「お、遂に噂の恋人に会いに行くのか? 随分待たされて可哀想にな」 「おいサット、いくらお前でもぶちのめす時はぶちのめすぞ」 「冗談はさておき、上の奴を殺すのはかなりまずいぜ。ビビらせて帰すくらいにしとけよ?」 「うっせぇな、わかってるよ!」 ラムダは苛立ちを隠そうともせず乱暴にサットを押し退けると、大通りへと歩いていく。それを見送ったサットは、遂に彼を怒らせてしまったかと少しだけパイロンの心配をした。
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