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←前編・夢のような日々


翌朝、クリスティアーノは父のメルキオッレと共に馬車に揺られ、大急ぎで修理を終わらせた大橋を渡っていた。二人の間に会話はなく、クリスティアーノはただ俯いて足元に顔を向けている。  日が昇る頃、ハドリスから送った救出隊から報せが届いていた。襲撃者は既に去り、王宮の火事も鎮火され、王都の安全が確保された事。王妃は偶然外出しており無事だという事。――王宮から救出されたのはカーライル王子ただ一人である事。  それを聞かされたクリスティアーノは声も上げられず、一緒に行くかという父の問いに対して力なく頷いただけだった。

しばらくして馬車は王都へ辿り着き、メルキオッレは王宮のある山から未だに燻る黒い煙を見て顔を顰める。そこへ近付くにつれ、焦げ臭い匂いが漂ってきた。王宮の半分は焼け落ち、周囲では近衛兵とマードックの救出隊が慌ただしく動いていた。担架に乗せられ、布を被せられた物が次々に運ばれていく。馬車が止まると、ようやくクリスティアーノは顔を上げて外に出た。ふらふらと夢遊病者のように歩く彼に兵達はざわつくが、誰も声を掛ける事は出来なかった。この場にいる全員が、先日までの彼の幸せなそうな顔を知っている。  庭に面した廊下は外壁が崩れ、熱でねじくれたカーテンが風に揺れていた。ここの隅でクリスティアーノはコーデリアに追い詰められ、少々不格好なプロポーズをした。不意に足がもつれる。見れば爪先に誰かの上着が引っ掛かっていた。襟には王家の紋章が刺繍されている。大きさからして末弟のコンラッドのものだろうと推測出来た。 「ディリィはどこ?」  思い出したようにクリスティアーノはこの日初めて口を開いた。兵達は判断を仰ぐようにメルキオッレを見て、一人が耳元に何かを囁いた。それを聞いたメルキオッレは軽く首を振りつつも、クリスティアーノを呼び寄せる。 「見ない方がいい」 「どうしてですか。僕は彼女に会う為にここまで来たんです。僕は」 「わかった、行け。連れていってやれ」  無理に止めればクリスティアーノはまた勝手に探し回るだろう、かといってまた閉じ込めるような真似はメルキオッレもしたくはなかった。案内にはメルキオッレの側近である二人の将校が付き添った。クリスティアーノが妙な気を起こした時の為に。

そこは妙に静かで、焦げた匂いと死者の魂を鎮める香の匂いが混じりあい、布を被せられた何かが地面にたくさん並べられていた。その間をクリスティアーノ達は歩いていく。案内されたのは、一番奥に設えたテントだった。その前で見張りをしていた兵士は一瞬警戒したものの、クリスティアーノの顔を見るとすぐに道を開ける。 「ここに……?」  思考の追い付いていないクリスティアーノが、テントを指して首を傾げる。王族ともあろうものが何故こんな粗末な場所にいるのか、何故葬儀用の香が焚かれているのか、それすら頭の中で上手く噛み合っていなかった。  誰も出入りをしていないテントの中は、今まで以上に強く香の薫りが充満していた。寝台が三つと、その上に置かれた何かが三つ。 「本当によろしいのですか?」  改めて確認され、クリスティアーノはその意味をよく理解しないまま頷いた。一番小さな何かの前に立たされると、その上に掛けられた布が捲られる。真っ黒に煤け、顔もわからない焼死体がそこに横たわっていた。 「これがディリィですか?」  その声が意外にもあっけらかんとしていて、思わず兵士達は顔を見合わせる。まるで彫刻を眺め、そのモチーフを尋ねるかのような声だった。実際、クリスティアーノは自分が何を見せられているのか、何を口走っているのか半分も理解していなかった。ぼんやりとそれを見下ろし、これはなんだろうと考えていた。理解すれば心が壊れてしまう、という体の防衛反応だったのかも知れない。  少し遅れて、メルキオッレもテントに現れた。三つの遺体の前で祈りを捧げ、呆然としたまま動かないクリスティアーノをそのままに、一旦テントを出る。 「一人足りないのではないか?」 「それが、コンラッド王子の御遺体がまだ見つからず……王達と同室していた事は確かなのですが。襲ったのは巨大な竜だったという証言もあります。コンラッド王子は食べられてしまったのでは、と」 「なんという事だ。して、カーライル王子の容態は?」 「半身に大火傷を負い、未だ予断を許さない状況だと。王妃様はカーライル王子に付き添っていますが大変ショックを受けていらっしゃる様子で」 「無理もないな」  僅かに聞こえる父の声をぼんやりと聞きながら、クリスティアーノは目の前の黒い塊の末端に光るものを見つけた。煤けたそれを指先で擦ると、深い緑色をした石が顔を出した。途端、クリスティアーノは腰を抜かしたように崩れ落ち、付き添いの兵士が慌ててその背中を支える。 「あ……ディリィ……」  クリスティアーノの瞳と同じ色をしたエメラルド。それはコーデリアに贈った結婚指輪。これを嵌めた手は愛するコーデリア。そしてこの黒焦げの塊は、愛するコーデリア。  全ての点が亀裂となって繋がった時、クリスティアーノの中で辛うじて形を保っていた何かが崩れ落ちた。

あの華やかな結婚式からわずか三ヶ月、次に行われるのがまさか王達の葬儀になるとは、誰も予想していなかった。葬儀の進行はほとんどメルキオッレ公によって行われた。未だ目覚めぬカーライルはもちろん、王妃やクリスティアーノもその役割を担える状態ではなかった。

あの日以来、クリスティアーノはほとんど眠る事が出来なかった。微睡みの中で妻の優しく呼ぶ声を聞いて跳ね起き、やっと眠りについたと思えば妻の苦しみ悶える姿を見て叫びながら目を覚ました。時には幸せな頃の夢を見る事もあったが、そんな夢から覚めた時の絶望は一段と深かった。  そんな荒れた生活は彼の外見にも変化をもたらしていた。体は痩せ細り、瞳からは生気が失せ、髪には白髪が目立つようになった。コーデリアの棺を見つめ、虚ろな表情で佇む姿は、現世に取り残されてしまった幽霊のようでもあった。

祈りの言葉が捧げられ、死者の鎮魂の為の香が焚かれる。その薫りが風に乗ってクリスティアーノまで届いた時、彼は持っていた花束を取り落とし、ふらふらと前へ歩き出した。 「ディリィ」 『クリス』  彼にしか聞こえない声が優しくその名を呼ぶ。 『ごめんね』 「待って!」  そう叫ぶと同時にクリスティアーノは駆け出していた。供えられた花を蹴散らしてコーデリアの棺にすがり、額を擦り付けた。 「嫌だ! ディリィと離れたくない! お願い、どうか……どこにも行かないで、君がいないと僕は……ディリィ……ぅ……き、君を愛しているんだ。……ずっと、ずっと僕と一緒にいてよ……!」  嘆く声はやがて嗚咽の中に埋もれていき、やがて彼は人目も憚らず子供のように大声で泣き出した。その姿に多くの者が衝撃を受け、呆然と見ている事しか出来なかった。父であるメルキオッレでさえ息子のこんな姿を見るのは初めてで、ただ戸惑うばかりだった。  そこからの先の記憶はクリスティアーノにはない。泣き疲れ、死んだように眠った。このまま目覚めない事が彼自身の望みかのように。それでも目覚めは訪れ、コーデリアのいない朝は容赦なく何度も何度も彼を打ちのめし続けた。

自殺してしまうのではないかという周囲の心配もよそに少しの休養を経てクリスティアーノは宮廷に復帰した。涙も枯れ果てた心を抱えながら、共に彼女を愛したこの国を守ると誓い、王家に忠実であり続けた。狂気の耳削王カーライルによって崩壊しかけた宮廷を支え、若きエクター王の時代には摂政を務めた。宮廷から退いた後も王家の輩としてマードック領主を長きに渡って務め、後継にその役目を譲ると、夫婦の新居となるはずだったあの屋敷で余生を過ごす事にした。

長年手付かずで荒れ果てていた庭園を改めて整備し直し、今は子供達を遊ばせている。養子として迎え、家督を譲った甥ピエルマルコの孫や親類達だ。 「クリスひいおじい様、90歳のお誕生日おめでとうございます」 「ありがとう。遊んでおいで」  まだたどたどしい話し方に頬が緩んだ。上手く言えたと親元に駆けていく姿を見送ってから彼は目を閉じる。子供達を見るために車椅子で庭へ連れ出してもらったが、外の風は心地良くもまだ少し冷たい。  最愛の妻コーデリアも、親友だった王カーライルも、生意気な弟フランチェスコも妹達も、先に逝ってしまった。あの頃を知る者はもはや一人もいない。この記憶ももうすぐただの記録になるのだろう。後悔も多かったが、やれるだけの事はやった。あの頃望んだ未来とは違うが、今ここにあるものだって決して悪くはない。

「クリス、クリス……もう、こんな所で寝るなんて」  触れた手が温かくて、耳をくすぐる声が心地良くて、目を開けるのに苦労した。太陽の光が、その髪をオレンジ色に透かして見せる。カーネリアンの大きな瞳が呆れたように彼の顔を覗き込む。 「あぁ……ディリィ、ごめんね。……たくさんたくさん、待たせちゃったね」 「そうよ。60年も待たせるなんて、本当にのろまなんだから」 「君は待っててくれるって、迎えに来てくれるって思ってたから」 「当たり前じゃない。ほら、お庭を一緒にお散歩。約束してたでしょ?」 「うん、それじゃあ……行こうか」  差し出された彼女の手を握って立ち上がり、腕を組んでゆっくりと庭園を歩いていく。彼女の好きな花を一緒に眺め、いつものように歩調を合わせて、穏やかに笑い合って。


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