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揺れ動く馬車の中で目が覚めた。少しだけ腰に痛みを感じて楽な体勢に座り直し、木窓をスライドさせて外を見る。ハドリスの町の明かりが少し先に見え、目的地まであと少しだと確認して窓を閉め直した。今夜はハドリスに一泊だ。我が儘を言えば、夜通し馬車を走らせて王都まで帰りたかった。愛する妻の待つ王都パゼーへ。

マードック家の御曹司クリスティアーノと王女コーデリアが結婚してそろそろ三ヶ月になる。二人は新婚生活のほとんどを王都で過ごした。毎日一緒に過ごしていても新しい驚きと喜びの連続で、飽きる事などなかった。それでも彼はマードック家の跡取りなので、以前とは逆に月に一度程度ハドリスに戻り、領民や家族に顔を見せていた。一日で帰れる程度の距離なので、普段は離れる事もそれほど苦ではなかった。  しかし今回は事情が違った。王都のあるヴィノティーン領とマードック領を繋ぐ大橋の一部が崩れ、馬車での移動は迂回を余儀なくされた。そして、どうせ時間がかかるならついでに建設中の新居も見ていこう、という事になったのだ。新居はもうほとんど外観は出来ていて、ここで暮らすのだと考えると胸が躍った。やはりコーデリアも連れてくるべきだったかと今更ながら少し後悔した。彼女がいれば無邪気な笑顔を見せて喜んでくれただろう。彼女自身は一緒に行きたいと申し出たのだが、大橋を避けた迂回路は道が悪く休憩出来るような町もない。長時間の悪路での馬車移動は、ある程度慣れているクリスティアーノでも体に負担が掛かる。子供のように拗ねるコーデリアをどうにか宥め、留守番を任せて出立して来ていた。  見送ってくれたコーデリアのむくれ顔と、出迎えてくれるであろう最高の笑顔を思い浮かべると急に寂しさを覚え、今すぐにでも彼女に会いたくなった。そうして少し予定を早めて帰路につき、マードック家の邸宅のあるハドリスまで辿り着いた。 「クリスお兄様、おかえりなさい。どうでした? 新居は」 「うん、すごく良かったよ。もうほとんど完成していたから、今度見においで」  出迎えた妹に笑顔を見せ、長く暮らしたハドリスの実家に足を踏み入れる。大橋は明日には復旧出来るという知らせが入っていた。明日に通れるなら、今迂回路を行くよりも早く快適に王都へ帰れる。それでどうにも急く気持ちを納得させた。疲れた顔で会うよりも、一日休んで万全の体調で元気な姿を見せた方が彼女も喜ぶだろう。やはり移動で疲れていたのか、どうにも体が重い気もした。  寝仕度を整えて床に入る。久し振りの自室は、主がほとんど帰らずとも丁寧に手入れが行き届いていた。ここの家具もいつかは新居に運ぼう、ぼんやり部屋を眺めてそんな事を考えながら、クリスティアーノは眠りについた。

部屋まで響く慌ただしい足音と父メルキオッレの怒号でクリスティアーノは目を覚ました。まるで火事でもあったかのような緊張感が屋敷中に広まっていた。だとすれば御曹司であるクリスティアーノの寝室へは真っ先に誰かが起こしに来てくれるはずなのだが。  首を傾げながら寝惚け眼で部屋から顔を出し、通りかかった父に何事かと尋ねたが、彼は一瞬顔を顰めた後に「寝ていろ」とだけ言って足早に去ってしまった。 「橋は通れんのか」 「兵を編成しろ、精鋭だ」 「安否はまだわからんのか」  廊下の向こうから聞こえてくる会話の断片に血の気が引いていくのを感じた。間違いない、王都で何かがあったのだ。寝衣のまま部屋を飛び出して父を追いかけた。 「父上、王都で何かあったのですか?」 「クリス、寝ていろと言っただろ!」 「父上が言わないのであれば僕は勝手に動きます。何があったのですか?」  父の剣幕にも一切引かず、もう一度尋ねた。 「……王宮が襲われた。火を放たれたらしい。今援軍を送る会議中だ。いいか、お前のやる事は何もない。部屋で待機していろ」 「皆の安否は、わからないと?」 「来たのは襲撃の第一報だけだ」 「……わかりました」  真っ青な顔で下がっていくクリスティアーノを尻目に、マードック領主メルキオッレは一刻も早く王都への援軍を送る準備を続けた。クリスティアーノがとっくに冷静な判断力を失っている事など、気付ける余裕はなかった。

「助けなきゃ、助けなきゃ、僕がディリィを助けなきゃ、ディリィが助けを求めてる、僕が助けに行かないと」  クリスティアーノはうわ言のようにブツブツと呟きながら、普段は編んでいる髪を邪魔にならないように簡単にまとめて結い、動きやすい服装に着替えた。屋敷を抜け出し、慌ただしく準備をしている兵達を物陰から品定めをするように見る。やがて標的を決めると、真っ直ぐに近付いていって声を掛けた。よもや話し掛けてきた相手がマードック第二の権力者とは思わず、その兵士は訳も分からず人気のない場所へ連れ出されていく。 「僕が誰だかわかるな。頼みがある」  言葉とは裏腹に、有無を言わせない空気だ。クリスティアーノはその兵の背丈と体格を改めて確認すると、まるで野盗がそうするかのように兵の胸当てを乱暴に突く。 「これを貸せ」 「クリスティアーノ様、それは」 「金なら好きなだけ払ってやる。職を失うのが心配なら、後で僕の私兵として厚遇する。それでいいだろ。……僕が、僕が行かなくちゃ……」 「……わかり、ました」  金で頷いたのではない。断った時の仕返しに怯えた訳でもない。クリスティアーノの目があまりにも必死で、断る事が出来なかったのだ。

結婚式で着た物とは違い、本物の甲冑は思いのほか重く、少し戸惑ったが兜で顔が隠れるお陰で怪しまれずに馬を引いて隊列に加わる事が出来た。服を交換した兵士には屋敷で寝衣に着替えて布団を被っておくように伝えて別れている。迂回路を通る事になっても、一人で隊を離れて無理にでも大橋を渡ればいい。壊れた橋でも一騎ならば問題はないはずだ。クリスティアーノは至って冷静なつもりだった。  そして、いざ出立という時になってクリスティアーノは致命的なミスに気付いた。馬車には乗った事があるが、馬に直接跨がった経験はないのだ。周りが次々に騎乗する中、クリスティアーノ一人が馬に跳び付いては滑り落ち、暗さで鐙に足を掛ける事もままならない。明らかにそれはマードック兵の精鋭の姿ではなかった。その異様な光景に首を傾げた隊長がクリスティアーノへ近付いてくる。焦って再び乗ろうとするものの、ついには馬に嫌がられて押し返され、尻餅をついてしまった。 「どうしたお前。酔ってるのか?」 「大丈夫です。問題ありません」 「問題ない訳あるか。お前誰だ、名乗れ」 「大丈夫です、お願いです、行かせてください……」  明らかに普通ではない。隊長は馬から降りてその兜を乱暴に剥ぎ取り、思わず目を剥く。 「く、クリスティアーノ公? 何故ここに?!」 「お願いします。行かせてください。お願いします、父には言わないで……お願い、します……」  そんな懇願も今回ばかりは通用しなかった。すぐにメルキオッレ公へと連絡が行き、クリスティアーノは兵達に羽交い締めにされて屋敷へ連れ戻された。

「クリスティアーノ、お前の愚かな行動のせいで救助隊の出立が遅れたんだ。わかるか?」 「……申し訳ありませんでした。……僕はディリィを、助けなきゃと、思って」 「お前が行ったところで何が出来る?! 馬にも満足に乗れないお前に! お前は王都への救出隊の邪魔をしたんだ! この大馬鹿者が! 反逆罪に値するぞ! お前はマードック家から反逆者を出すつもりか?!」 「ごめんなさい……ごめんなさい……僕は……」  必死に謝りながらも、クリスティアーノの頭の中はコーデリアの事でいっぱいだった。怪我をしてはいないか、怖がってはいないか、何故こんな時にこそ傍にいてやれないのかと。 「父上、もういいじゃないか。兄上の気持ちもわかるだろ、もう休ませてやれよ」  見かねた弟のフランチェスコがメルキオッレを宥め、ようやくクリスティアーノは自室に戻る事を許された。もちろん、見張り付きで。  その日、クリスティアーノは一睡も出来なかった。ただベッドの上に座り、コーデリアの無事を祈りながら窓の外が明るくなるのを待つ事しか出来なかった。


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夢の終わり②