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→後編・夢の終わり


「私、あなたとは結婚したくない」  よもや「初めまして」の次の言葉がこれだとは。婚約者である彼は動揺を隠せないまま、目の前で不機嫌そうに眉を寄せる少女の顔を見た。悪い冗談なのではないか、何かを試されているのではないか、その真意を探ろうと少し屈んで彼女の顔を覗き込むが、その薄紅色の瞳は彼の様子を窺うでもなく伏せられていて、こうしている間にも背を向けて立ち去ってしまいそうだった。 「コーデリア王女……僕は何か、あの、あなたの気に障るような事を、してしまいましたか?」 「別に。ただマードックの人が嫌いなだけ」  そう言われてしまってはどうしようもない。彼――クリスティアーノ・クローチェ・マードックにとっては、その家名は誇りであり、変え難い事なのだから。存在自体が気に障ると言われたようなもので、直す直さないの問題ではない。  返す言葉もなく立ち尽くすクリスティアーノの様子に気付いてか、そのまま不機嫌そうに踵を返すコーデリアの肩に手を置いて引き留める人物がいた。彼女の兄のカーライル王子だ。次男でありながら国民からの人気が非常に高く、とても気さくで幼少期からクリスティアーノとも仲がいい。 「初めて顔を合わせる婚約者同士でどんな甘い会話をするのだろうか気になって、悪いと思いつつ聞いていたけど。随分機嫌が悪いねコーデリア、どうして彼を嫌う? 可哀想じゃないか、今日の為にずっと準備をしてきた彼を無下に扱うなんて」  コーデリアは兄に対しても心底鬱陶しげな視線を送りつつ、肩に触れる手を振り払う。そしてクリスティアーノを一瞥してから、彼にも聞こえるよう、突きつけるようにその理由を告げた。 「マードックの人は粗暴で下品だからよ。この人の父君と弟君には会った事あるけど、ああいう人達私嫌いなの。とても会話なんて出来ないわ。あとその長髪キモチワルイ」  それにはクリスティアーノにも心当たりがあった。マードック人は確かに粗暴で下品な物言いをする者が多く、それを豪胆だ猛々しいなどと持て囃すお国柄で、父や弟はその代表格と言ってもいい。だがクリスティアーノ自身はそんな傾向を嫌い、彼らを反面教師として丁寧で気品のある言動を心掛けてきたつもりなのだ。ろくに会話もせずに一緒くたにされてしまうのは心外で、そこは彼をよく知るカーライルも同じ気持ちだったようだ。 「クリスもそうだと? それは早とちりだ。今日初めて会ったのに何がわかる? 私もクリスや彼の親類とは何度か会っているが、クリスだけはお前の言うマードック像とは違うと断言しよう。そんな環境に囲まれながら粗暴さや下品さとは縁遠い稀有な男だよ。生まれながらの繊細さや優しさ、そして芯の強さがなせる技だろうね。――出来る事なら私が結婚したいくらいだよ」  兄の余計な一言を慣れた様子で聞き流し、コーデリアはやれやれと振り返って怪訝そうにクリスティアーノを見上げた。彼女は兄を毛嫌いしていたが、その言い分を全否定するほど頑なではなかった。改めてまじまじと顔を見つめられ、クリスティアーノは自分なりに精一杯の笑顔を浮かべた。助けに来たのか横取りにきたのか定かではない視線を横から感じて、やや引きつってはいたが。 「この人……なんか目が死んでる」 「う。すみません、こういう顔です。……あの、話だけでもしませんか? もう少しお互いの事を知れば、多少わだかまりも解けるかと」 「まあいいわ。どうせ暇だし、ろくでなしのカーライル兄さんに絡まれるよりは何倍もましよ。私もあなたもね」  しっしっ、と野良犬でも追い払うかのように兄を遠ざける。妹からのそんな扱いも日常らしいカーライルは「愛してるよ、可愛いコーデリア」と言い残し、クリスティアーノに会釈をすると他の貴族達の談笑の中へ戻っていった。コーデリアが自分にだけ特別厳しい訳ではないのだとわかると、少しだけクリスティアーノの不安は拭われた。こういった性格のキツイ女性は苦手ではあったが。

この婚約自体はずっと以前から決まっていたものだった。王と近しいマードック家の長男であるクリスティアーノの妻には王家ヴィノティーンの長女コーデリアが相応しいと、両家の長が示し合わせていたのだ。こうしてコーデリアがある程度大きくなるまで会わずにいたのは、彼女より一回り年上のクリスティアーノの方が望んだ事だった。あまり幼い頃から見ていては夫婦生活に支障をきたす感情を持つかもしれないと思ったからだ。 「言っておくけど、どんなに説得したって結婚はしないわよ」 「ああ、はい……しかし、その、僕としないとなると、次の候補は僕の弟フランチェスコになると思います。あるいは他の貴族か」 「それは絶対に嫌!」  突然声を荒げたコーデリアの剣幕に圧され、クリスティアーノは大きな体をひょいと縮こませた。彼女は怒りで顔を赤くしながら更に捲し立てる。 「お父様が勝手に決めた事だもの! 平民でも好きな相手と結婚できるのに、私だけ出来ないなんておかしいわ!」 「ど、どうか落ち着いて……ええと、他に好きな方がいらっしゃるんですか?」 「それは……まだいないけど。とにかく、私は好きな人と素敵な恋愛をして、幸せな結婚がしたいの! 自分で決めたいの!」  好きな人との幸せな結婚。その言葉には少しだけクリスティアーノにも思うところがあった。彼もそれを夢見ていた時期があったのだ。幼い頃に早々に諦めた儚い夢だが。  召し使いだった女性や、年の近い貴族の子、優しい家庭教師に淡い憧れを抱いた事はあった。だが自分には既に相手が決まっている。この人とは結婚出来ないのだと思うと途端に気持ちが萎えていき、本来なら恋の一つや二つを経験したであろう思春期になると、もはやそんな憧れすら抱かなくなっていた。最終的に王女と結婚するならば、それまでに何人と交際しようが咎められる立場でもないのだが。  そして、この人のせいだともこの人のためだとも思わず、ただ淡々と流れに身を任せるまま今日を迎えた。彼女のように疑問も怒りも持たず、無感情に。素敵な恋を夢見る彼女は、そんなクリスティアーノの冷めた心を無意識に見透かしたのかも知れない。さぞかし魅力のない無気力な人間に見えただろう。 「それは……良いですね。僕もあなたには幸せになって欲しい。きっと僕には出来ないから。応援したいし、協力したいな」 「本当?! じゃあ家出の手伝いをして! どうしたら街で暮らせるか考えて!」 「そ、それはいけません!」  王女の予想外の発想につい大きな声が出てしまった。クリスティアーノはしまったと口元を押さえながら周りを見回す。幸いこちらを気にしている人物はいないし、聞き耳を立てているカーライルもいない。ほっと胸を撫で下ろしてきょとんとしている王女に向き直った。応援してやりたいとは言ったものの、流石にこの提案は呑めない。  声を抑えるよう身振りで彼女に促しながら、クリスティアーノはなるべく優しく諭すように語りかけた。 「コーデリア王女、その、あなたがここからいなくなったら国中大騒ぎになります。それに、皆があなたのお顔を知っていますし、隠れて暮らすなんてとても無理です」  世間知らずの15歳の少女がいきなり飛び出して生きていけるほど、世の中は甘くない。必ず酷い目に遭う。死んでしまう可能性も低くはない。  コーデリアはむうと唸りながらもひとまず家出は難しいと納得したようだ。 「きっとこれから素敵な人に出会えますよ。あなたは王女なのですから、これからもたくさんの人と出会います。だから待ちましょう?」 「そんな悠長にしていたら、お父様がまた勝手に婚約者を連れてくるわよ。その内無理矢理結婚させられるわ」 「ええと……では、そうですね……あなたが本当に好きな人と出会うまで、僕が婚約者のフリをするというのは? それならきっと陛下も安心なさいます。日取りを二人で決めたいと言えば任せてくださるでしょう。お相手が見つかれば、その方に僕からも事の顛末を説明します」  コーデリアは再びきょとんとクリスティアーノを見つめていたが、その作戦を理解するとぱっと笑顔を咲かせ、小さく何度も頷いて瞳を輝かせた。声を潜めて語り合う二人は、端から見れば仲睦まじい婚約者同士に見えただろう。  最終的には婚約を破談にされる事になるクリスティアーノだったが、そこは良家の嫡男である。多少遅れたところでまだまだ引く手数多なのだ。結婚を嫌がっている我が儘で気の強い王女様と結婚するよりは、スムーズに良好な関係を築けるだろう。 「それでいいわ。ごめんね、こればっかりはカーライル兄さんが正しかった。あなたを誤解してたわ、優しいのねクリストファー」 「クリスティアーノです」 「あら?」  前途は多難である。


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夢のような日々②

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