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→後編・夢の終わり


この年はマードック領で雨が続き、洪水や土砂崩れが相次いだ。クリスティアーノは被害の大きかった南部の都市ボーツェレンに滞在する期間が長くなり、そんな事情でコーデリアの住む北の王都へと出向く事が難しくなった。――というのはあくまで口実で、実際の所はクリスティアーノ本人がコーデリアに会うのを避ける為に、自らその役割を買って出ていたのだった。また自分の気持ちが暴走してしまう事、彼女の恋路を邪魔してしまう事を恐れて。

そうして顔を会わせないまま三ヶ月が過ぎた頃、クリスティアーノの元へと手紙が届いた。上等な紙に王家の封印。差出人はコーデリア・ヴィノティーン。何かあったのだろうかと封を切る。彼女の文字を見たのは初めてだったが、丸みを帯びた字がどことなくそれらしくて、自然に頬が緩んだ。 『親愛なるクリスティアーノ公爵様へ 最近忙しそうね。体は大丈夫? あなたが会いに来てくれないから、私はもう話したい事が溜まりすぎてそろそろ破裂するところだわ。こっちはいつも通り退屈で、出会う人は嫌な人ばっかり。 だから、そっちに遊びに行く事にしたわ。準備よろしくね。 ――追伸、あなたの弟は絶対に追い出しておいてね』 「ハハ、王女からのラブレターか、兄上。三月も放置ではな! そろそろ他の男に股を開いているかもしれんぞ? ここは俺に任せて会いに行ってはどうだ」  その件の弟、フランチェスコが背後から手紙を覗き見ようと身を屈ませる。クリスティアーノは素早くバシンと音を立てて手紙を机に伏せると、頭突きを食らわせそうな勢いで立ち上がって弟を退けさせた。コーデリアが彼を嫌うのもよくわかる。クリスティアーノは最大限の侮蔑を込めて弟の顔を見る。王女に対してもこういう態度だったのかと。 「王女への侮辱だ。そういう下卑た物言いは二度とするな。……フラン、お前どうせ滞在するならエンデナーの方がいいと言っていたな。エンデナーへ行け」 「は?」 「どうせここでの滞在が終われば次はエンデナーの視察だ。先に行っていろ。兄としての命令だ、今すぐ行け手ぶらで行け歩いて行けっ」  呆然としている弟の胸を拳で何度か小突いた。穏和なはずの兄に凄まれた弟はすごすごと涙目で退散し、クリスティアーノは改めて頭を抱えた。  親愛なるクリスティアーノ公爵様へという文面、体調を気遣ってくれた事、会いに来てくれる事、何もかもが嬉しい。嬉しいのだが、素直に喜べない。一体どんな顔で会えというのか。そもそも彼も被害の確認でこの地を訪れているので、ろくなもてなしは出来ない。  クリスティアーノは窓の外へ目を向けた。相変わらずの雨だ。恐らくこの手紙を運んだ鳩竜も王都から数日かけてここまで飛んできたのだろう。これでは陸路の方が早いくらいだ。王女は今日明日にはやってくると推測し、クリスティアーノは覚悟を決めて準備に走り出した。

コーデリアがクリスティアーノの滞在するボーツェレンに到着したのは、手紙が届いてから二日後だった。クリスティアーノの予想よりもやや遅い。それもそのはず、やってきたのは彼女一人だけではなかった。 「お父様にお願いして、いっぱいプレゼントを持ってきたわ。遊びに来たと思ってたでしょ。見直した?」  得意気に笑うコーデリアの後ろには多くの荷車が控えており、そこには多くの救援物資が積まれていた。そして更に嬉しい事がもう一つ、あれほど重苦しく居座っていた雨雲が、王女達の到着と共に綺麗さっぱり消え去ったのだ。まるで彼女の晴れやかな笑顔の前に退散したかのように。

「思ったより良いところね、景色も綺麗で、暖かくて。私、王都からこんなに遠くまで来たの初めて」  雨上がりの澄んだ空気の中、コーデリアは招かれた屋敷のバルコニーからの景色を楽しんでいた。クリスティアーノもその隣に並び、農地の広がる平原とその先に青く並び立つ山々を眺めた。未だに眼下の川は茶色く濁ってはいるが、数日の内に元の澄んだ流れへと戻るだろう。自分の領地にいるお陰か、互いの両親がいない場だからか、王都に滞在していた頃と違い、不思議と穏やかな気持ちでいられた。 「コーデリア王女、誰かがあなたを女神だと言っていたけど……僕もそう思うよ」  その意味は伝わらなくてもいい。酷く遠回しで、消極的で、一方的な告白だった。 「大袈裟ね。たまたま晴れただけよ」 「皆が救われたのはたまたまじゃない。君のお陰だ。本当にありがとう」  クリスティアーノは一度手元に視線を落としてから、改めてコーデリアと目を合わせて礼を言う。その瞳からは怯えや迷いは消え、コーデリアが真っ直ぐに見つめ返しても逸らされる事はなかった。こうしてしっかりと見つめ合うのは、二人にとっては初めてだった。 「クリス、ちょっと顔変わった?」 「え、老けた、かな」 「なんだか目が綺麗になった気がする。マードックはエメラルドの瞳って本当なのね」 「そ、そう? うーん……屋外で会うのは初めてだからじゃないかな。君も陽が当たって髪がいつもより鮮やかに見える。茶色だと思っていたんだけど、こうして見るとオレンジなんだね。すごく綺麗だ」 「あ、ありがと……」  この場にカーライルがいたなら、もどかしさで身悶えしていただろう。だがいないからこそ邪魔されずに出来る会話でもある。 「そういえば、愚痴を聞いて欲しいんじゃなかった? そろそろ破裂しそうって手紙に書いてあったよ、大丈夫?」 「ああ……そうだったわ。でもクリスの元気そうな顔見たらどうでもよくなっちゃった。それに、こんな綺麗な景色を見ながら愚痴なんて言えないわ」  それから二人は夕日が沈むまで他愛のない会話を続けた。これから行きたい所、食べたい物、お気に入りの靴、窓から見える鳥の巣、見つけた一番星、ほとんどはコーデリアからの一方通行。それはいつも通りで、クリスティアーノも久し振りの彼女のおしゃべりを楽しんだ。最後には話題に困り、結局は愚痴も交えたものの、本来彼に報告すべき“出逢った素敵な人”の話題をコーデリアは出さなかった。そもそもクリスティアーノよりも優しく素敵な人とは出逢わなかったのだから、話しようがない。

クリスティアーノが以前のように王都へ月に一度訪れるようになり、二人の仲睦まじい様子に誰も間に入ろうなどと思わなくなった頃。 「あ、あの……何か、御用、でしょうか?」  クリスティアーノは窮地に陥っていた。  廊下を歩いている途中、「オホホ、親愛なるクリスティアーノ公爵様、ちょーっとよろしいかしら?」と腕を引っ張られ、人気のない場所に連れ込まれた。背後には壁、目の前にはただならぬオーラを醸し出す仁王立ちのコーデリア。何も心当たりのないクリスティアーノは、へなへなと床に座り込んで彼女を見上げるしかない。端から見れば完全に恐喝現場だ。 「クリス、あと半年で私20歳になるわ」 「もちろん、わかってるよ。ちゃんと今年もプレゼントも用意する。でも、まだ半年も」 「言ったでしょ? 私、20歳までには結婚したいの」  果たしてそんな事を言っただろうか、とクリスティアーノは首を傾げる。こういう場合は大抵コーデリアの勘違いなのだが、今それを指摘した所で火に油を注ぐだけとわかっている。間違いの訂正は彼女が冷静になった時でいい。とにかく怒りの原因を突き止める事が急務だ。クリスティアーノは眉尻を下げて降参を示す曖昧な笑みを浮かべ、彼女の次の言葉を待った。  コーデリアは何かを言いかけてから急に口ごもると、しゃがんでクリスティアーノの膝に両手を置いた。いつもは彼に合わせてもらう目線の高さを自分で合わせ、周りに人がいないかを少しだけ気にして声を抑える。 「だから、それまでに結婚させてよ」 「はい……?」  その言葉の意味が一度では理解出来ず、クリスティアーノは頭の中で何度も反芻させた。 ――誰と? 相手を探せと?  コーデリアの意図を読み解くのに頭がいっぱいで、言葉が出てこない。 「あなた以外誰がいるのよ」 「は……へ? だっ……だって、僕とは結婚しないって。他の人を見つけるって。好きな人以外とは、結婚したくないって……20歳を過ぎたっていいじゃない、好きな人を見つけ、なよ……」 「だ、か、ら!」  先程周りを気にした事など早くも忘れ、声を荒げながらべしべしとクリスティアーノの膝を叩く。大して痛くもないが、彼の混乱する頭の中を一度すっきりさせるには十分だった。 「私は好きな人と結婚するの! あなたが好きなの! あなたと結婚したいの! わかった?!」  曲解しようのないそのストレートな言葉で、クリスティアーノは顔が一気に熱くなるのを感じて目を泳がせる。でも、だって、僕なんか、そんな卑屈な言葉を返しそうになる口を塞ぐように何か柔らかいものが触れた。見ればコーデリアが膝に両手を乗せたまま身を乗り出して、クリスティアーノと唇を重ねていた。 「こ、これで、私の事、好きになった……でしょ」  強気な態度と行動とは裏腹に、コーデリアの心は不安で弾けそうだった。今にも涙が溢れそうなほど目は潤み、膝を掴んだ指先の震えは隠しようもない。決して悪ふざけではなく、軽々しい気持ちでもなく、勇気を振り絞った真摯な行動だった。  そんな事をしなくても以前からずっと好きだったとか、そのつもりになったのなら早めに言ってくれだとか、クリスティアーノにも色々言いたい事はあったはずなのだが、そんなぼやきはコーデリアの魔法で消し飛んでいた。 「好きになった。結婚しよう。コーデリア王女、僕と結婚して下さい」  コーデリアの両手を捕まえてぐっと握り締める。迫力に圧されて尻餅をついた彼女を、逆に追い詰めるかのように迫る。 「え、う、うん。絶対私を幸せにするのよ、出来る?」 「出来ないと思っていたけど、今の僕ならきっと君を幸せにしてあげられる。幸せにする」  今まで押し込めてきた気持ちが、堰を切って溢れ出した。そのままコーデリアの華奢な体を抱き締め、何度も口づけをする。全身の血が熱くなり、隅から隅まで勢いよく駆け巡るような感覚。こんなにも情熱的になれるのかと自分でも驚くほどに。 「ク、クリス、クリス、もう、わかったから、恥ずかしい……」 「ディリィって呼んでいい? 僕だけの特別な呼び方がしたい」 「い、いいけど」 「ありがとうディリィ、愛してるよ」  どちらからともなく笑い出した。すれ違っていただけで、お互いに想い合っていた事はなんとなく伝わった。

その日の内に王に謁見し、結婚式の準備を始めると報告した。同様にハドリスに鳩竜を飛ばし、クリスティアーノの父であるメルキオッレ公にも同じ報告としばらく帰らない旨を伝えた。コーデリアの20歳の誕生日までには式を済ませたい、と。  そもそも障害は何もなく、ただただ当人達の行き違いで滞っていたものなので、そこさえ噛み合ってしまえば後は流れるように物事は進んでいった。周りからすればようやく、二人からすればそれはもう目まぐるしいほどの駆け足で。  結婚式は二度行われる事に決まった。一度目はクリスティアーノの故郷ハドリスで、二度目はコーデリアの故郷王都パゼーで。前代未聞ではあったが、コーデリアの希望をどんどん組み込んでいった結果、どうも一度では収まらないとわかったからだ。両家の長からも祝い事は豪勢にやれとお墨付きを得た。


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