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→後編・夢の終わり


クリスティアーノは将来マードック家を継ぐものとして、領主である父の手伝いで自領内を回る事が多かった。その先々での王女との婚約を祝う声には多少罪悪感を覚えたものの、特に動じる事はなくにこやかに対応していた。そして月に一度程度、王都パゼーへ赴く際は必ず真っ先にコーデリアの元へ向かい、跪いて手の甲に口づけをして見せた。帰る時にもそうしてから帰るように習慣付けていた。皆を安心させるように。  コーデリアにとって、彼は秘密を共有する仲間であり、心の内を明かせる良き友人となっていた。通りで素敵な人と出会った事、すぐに言動を見て幻滅した事、兄の服に悪戯をした事、こんな他の者には言えないような話題も気兼ねなく話しては笑い合っていた。初め、人より大柄なクリスティアーノと人より小柄なコーデリアではなかなか足並みが揃わなかったダンスも、何度か繰り返している内にお世辞ではない喝采をもらえるまでに合わせられるようになった。

何度目かの訪問。春の兆しが見えていたマードック領とは違い、未だ雪のちらつく王都にはクリスティアーノの他、何人かの北の諸侯が集まっていた。ひょろりと細長いクリスティアーノと比べ、彼らは人種の違いなのか環境の違いなのか、がっしりとした体つきの者が多い。その中の一人、北の貴族の息子であろう若い青年がコーデリアに近付いていく。眉目秀麗、爽やかな笑顔の好青年だ。一言二言何か言葉を交わすと、跪いて手の甲にキスをした。  何の不思議もない、ここではありふれた光景。だがその光景を見た瞬間、クリスティアーノの心にさざめきのようなものが生まれた。それは何の前触れもなく、一滴の毒が混じるかのように全てを変えていった。コーデリアを見上げる名も知らぬ北国の青年の瞳に嫌悪を覚え、それに応じる彼女のはにかむような笑みに言い様のない焦りを感じた。  ――あのような表情を、彼女は僕に向けた事があっただろうか? 「やあ、どうも」  気が付くと、クリスティアーノは二人の会話に割って入っていた。周囲の者より頭一つ背が高く、この場で王家に次ぐ権力を持つクリスティアーノのただならぬ雰囲気に、北国の青年は威圧されて半歩退いた。立場上クリスティアーノはコーデリアの婚約者なのだから、決して不自然ではない。本当に婚約者だったならば。 「これはクリスティアーノ公、今奥様にご挨拶をしていた所です」 「まだ結婚はしていない」 「失礼致しました。では次回はお互いに妻を伴いましょう。私の所は今身重でして、今回は私一人がこちらに」 「そうですか。それは……おめでとうございます」  ふっと肩の力が抜ける。どうやら無意識に体が強ばっていたらしい。同時にコーデリアも小さくため息を吐いた。わずかに唇を尖らせて残念そうな顔をする彼女を見て、心を痛めるでもなく、安堵してしまっている事にクリスティアーノは気が付いた。大切な友人である彼女の幸せを願っておきながら、恋路の邪魔をしようとしたのだ。結果はどうあれ、それは彼女への裏切りに他ならない。そして何故そんな事をしたのか、その理由はもちろん一つしかない。

「……ちょっといいなって思ったんだけどな」  半ば逃げるように去っていく青年の背中を見送りながら呟いたコーデリアの言葉が、クリスティアーノの胸にチクリと刺さる。純粋に既婚者だった事を残念がっているだけの言葉なのだが、どうにも責められているように感じたのだ。 「でも年を取ったら皆ああいう風に熊みたいになっちゃうのかしら。それはちょっと嫌ね。……どうしたのクリス? ワイン飲み過ぎちゃった?」  叱られた仔犬のようになっていたクリスティアーノの顔を、コーデリアが下から覗き込む。視界に飛び込んできた彼女の薄紅色の瞳は、いつもより輝いて見えた。少し開いた襟から覗く白い肌と鎖骨の窪みに蠱惑的な色香を感じた。一度染まってしまった心は、見慣れていたはずのものを一変させていた。  酒とは違う理由でその顔はみるみる赤くなり、彼は残った理性を振り絞って咄嗟に片手で目元を覆う。上がった脈拍が瞼の裏でチカチカと光って見えた。 「ごめん、駄目かも。気分が……」 「大丈夫? お医者様呼ぶ?」 「もう休むよ」  それを言うのが精一杯で、クリスティアーノはただ首を振ってコーデリアの申し出を断ると、心配そうに眉を寄せる彼女に背を向け、壁と足元だけを見ながらその場を後にした。  用意されていた部屋に戻るまで、クリスティアーノは顔を上げる事が出来なかった。世話役として控えていた召し使いを部屋の外に追いやり、ベッドに倒れ込む。手近にあった枕を、もやもやした気持ちを塗り込めるかのように両腕で力一杯に押し潰した。今日のための仕立服がしわくちゃになろうとお構い無しだ。  本音を言うのなら、今すぐに戻ってコーデリアの温かい体を抱き締めたかった。こんな無愛想な枕ではなく。 「駄目だ、僕はもうとっくに振られているんだから」  彼女とは結婚出来ない。だから諦めよう。幼い頃から何度もそうしてきたように、自らに言い聞かせて枕に押し込めた。  この恋はこれでおしまい。そう、彼女の言うようにワインの飲み過ぎだったのかも知れない。一晩眠れば元通りかも知れない。

そうしていつの間にか眠っていたのか、気が付くと朝になっていた。至っていつも通りの朝だ。くしゃくしゃの仕立服と、履いたままの靴と、編んだままの髪以外は。  昨晩の悶々とした気持ちは落ち着いていて、クリスティアーノはどこか寂しさを覚えながらも一夜の気の迷いを振り払えた事に安堵していた。 「昨日は飲み過ぎたんだ」  世話役を呼び、そんな言い訳をしながら身支度を整えさせる。風呂にも入りたかったが、今日中にも自宅のあるハドリスに帰る事を考えれば後にした方が賢明だろう。彼はもはや王家の一員といっても過言ではない立場で、頼めば快く用意をしてくれるだろうがそこはやはり気が咎めた。ここはクリスティアーノの居場所ではないのだ。  早くに眠った分、早くに目覚めたようで、王宮はいつもより人が少なく静かだった。コーデリアが起きていたとしても簡潔に、寝ていたならば伝言だけ頼んで帰ろうと、掃除をしていた召し使いに近付いた。 「おはようクリス。良かった、元気そうだ」 「ああ、カーライル王子、おはようございます」  突然横から割り込んできた声に驚きつつも、クリスティアーノはにこやかに挨拶を返した。コーデリアはどういう訳か彼を嫌っているが、クリスティアーノにとってカーライルは親しみやすい人物という印象だった。 「全く、お前はいつ私を義兄と呼んでくれる? とはいえお前は私より年上だ、義兄と呼ぶのに違和感があるのはわかるが。まあそれはいいとして、妹に用ならここで待つといい。もうすぐここを通る。……寝惚け眼のコーデリアもまた格別に可愛いよ?」  ずずいと顔を寄せ、悪巧みをするような笑みでそう付け加えると、カーライルは腕を組んでコーデリアが来るであろう方向へ向き直る。一緒に待つつもりらしい。これからその場所を掃除するつもりだった召し使いは、哀しそうに箒を数回空振りさせてから、そこは後でいいかとひっそりその場を離れていった。 「して、クリス。コーデリアとの仲はどう? 私としてはのんびりし過ぎではないかと思うんだけれど」 「僕はまだ勉強中ですから、今の内になるべく父の傍で領主としての心構えを学ばないと」 「いずれは向こうで二人で暮らすんだろう? それなら先にコーデリアを連れ帰ってもいいんだよ? 私は寂しいけれどね。こう何度も往復するのは骨だろうに。……それとも、もしかしてコーデリアが何か我が儘を言っているのかな。困っているのなら相談に乗るよ?」 「それは……その」  結婚を急く声や、こういう質問は今までのらりくらりと避けてきた。しかし今回は相手もさるもので、完全な善意で巧みに痛い所を突いてくる。立場上無下に扱う事も出来ない。この際コーデリアとの秘密の取り決めを白状してしまおうか、彼ならきっと良い方向に導いてくれるのではと迷い始めた所で、カーライルは不意に目線を外した。 「おはよう、コーデリア。愛するクリスがお前をお待ちだよ」  その姿は再びクリスティアーノの胸を貫いた。一晩眠った程度では、何も振り払えてなどいなかった。彼女が一歩近付く度に鼓動が速くなり、逃げ出したいような衝動に駆られた。そして今まで何人かに経験した恋心は、恋とも言えぬただの憧れだった事を理解した。この気持ちは一朝一夕に拭えるものではないと思い知った。 「お、おはようございますコーデリア王女……」 「おはよクリス……大丈夫? なんか今日も顔が赤いわよ」 「いえ、大丈夫です。帰って休めば、すぐに良くなりますから」  この状態が異常だと言うのなら、根本が解決する訳ではないが離れれば治まるというのは確かだった。コーデリアはまだ寝起きの頭でぼんやりしているのか、何の気なしに「そう、帰るの」とだけ呟くと、これまた何の気なしに手の甲をクリスティアーノに差し出して見せる。帰る前の恒例行事。いつも通りだった。クリスティアーノの心以外は。  床に片膝を着き、その小さな白い手をそっと持ち上げる。傷一つないきめ細やかな肌と、ピンク色の健康そうな爪が目に入り、咄嗟に目を細めて視界をぼやけさせた。口づけなどしようものなら触れた部分から自分の気持ちが何もかもが伝わってしまうような気がして、クリスティアーノはなるべく頭の中を空にしようと努めるが、そうしている間にもじんわりと肌の温もりが伝わって心が掻き乱されていく。 「クリス?」  いつもなら一瞬で終わるはずがいつまでもクリスティアーノが固まったままなので、流石に違和感を覚えたコーデリアが声を掛けた。純粋に体調を心配しての事だ。本当に大丈夫なのか、と尋ねようとした瞬間、手の甲にコツンと何か固いものが当たる。鼻か顎か頬か、少なくとも唇ではなかった。 「ではまた」  コーデリアが何かを言う前に、言い捨てるようにしてクリスティアーノは足早に去っていく。その姿をコーデリアは不安げに、カーライルは微笑ましく見送った。 「……ねぇ、クリス、どう見ても変よね?」 「キスをしてくれなかった?」  手の甲に視線を落として頷くコーデリアを見て、カーライルは含み笑いを漏らす。彼がニヤついているのはいつもの事だが、あまりにも可笑しげに笑うので、それがコーデリアの癇に障った。本当にクリスティアーノの体調が悪いのならば、笑い事ではないからだ。 「何よ、笑う事じゃないでしょ」 「それは失礼。私としては今からでもクリスを追いかけてもう少し王都に留まらせるか、このままお前がハドリスまでついていくのがとても面白いと思うのだけれど」 「何それ、私はクリスの体調を心配してるのに」 「可愛い妹よ、お前の純真さは時として罪だね。あれは体調不良ではないよ。……だがまあそうだね。私が口出しをする事ではない。とにかく、クリスをあまり困らせないように」  あれほどわかりやすく狼狽える者も珍しいのに何も気付いていないのかとカーライルは半ば呆れたものの、自分が言っては面白くないと明言を避けた。 「何よ。私のせいだって言うの……?」  実際、コーデリアは何もしていない。いつも通りに過ごしただけなのだ。  無意識に何らかの行動でクリスティアーノを傷付け、怒らせてしまったのだろうか、嫌われてしまったのだろうか、だからキスもせず目も合わせずに帰ってしまったのだろうか。そんな考えが頭を過り、コーデリアの胸はきゅうと苦しくなった。 「お二人とも、朝食に遅れますよ」  いつの間にか背後から迫ってきていた末弟のコンラッドが、そう呟きながら廊下に突っ立っていたカーライルとコーデリアの間をすり抜けていく。そうして二人もようやく空腹を思い出し、ダイニングルームへ向かって歩き出した。

ただ一人、一部始終を見ていた召し使いが、ようやく誰もいなくなった廊下の掃除を再開した。良いものを見たと、どことなく弾むような足取りで。


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