俺は物心つく頃には既にスピリアとして覚醒していた。親に付けられた名前を覚えるより先に自分の名前はエルナトだと認識していた……と思う。エルナトとしての知識と人間離れした身体能力、そして黒髪ばかりの親兄弟とはまるで違う鮮やかなオレンジ色の髪を与えられていた。もちろんそれは家庭の不和を呼んだようで、多くの兄弟がいたはずが気が付けば母親と二人暮らし。そして幼い頃の記憶は酷く断片的であやふやだ。
俺自身も不気味がられ、周囲の子供達とは馴染めなかった。怒りが湧くとすぐに癇癪を起こし、物を壊したり他人に怪我を負わせたりした。感情を暴れる事でしか表せず、更に普通の人間の力というものがわからず加減が出来なかった。掴んで引き倒しただけで、骨を折ってしまった事もあった。次第に周囲に人間扱いされなくなり、檻に入れて鎖に繋いでおけと言われた。そんな連中に突っかかって、俺はまた暴れた。その繰り返しだった。 「ヘラルド、本当は優しい子なのにどうして?」 母親は俺を見て泣いていた。俺とは違う黒い髪、優しい顔が歪んでいる。それには流石に少し心が痛んだが、抱き締めて頭を撫でてくれても俺の名前は呼んでくれない。俺はエルナトだ。✕ラ✕ドじゃない。
そんな荒んだ生活を続け、体格が大人と変わらないほどに成長したある日、俺は突然の強烈な吐き気と目眩に襲われていた。立ち上がる事も出来ずその場に蹲って吐き続け、胃の中が空になってもまだ込み上げる嘔気に呼吸すらままならず、溢れる涙と脂汗を拭う余裕もない。歪んだ視界の先、二つ並んだカップと膝を着く母親の姿が見えた。 「ごめん、ごめんね✕✕✕ド、苦しいよね。母さんを許して……お前が先じゃないと母さん安心して飲めないから」 何を飲ませた? 俺は死ぬのか? そんな声すら上げられないまま視界が急速に黒く塗り潰されていき、やがてプツリと閉じた。
次に目を覚ました時、俺は病院のベッドに寝かせられていた。母子二人で毒を煽り、生き残ったのは俺一人。そういう悲劇的な顛末だったらしい。 スピリアである俺は普通の人間よりも遥かに身体が強靭だ。きっと毒にも強かったのだろう。どこか他人事のように呆けていた俺の耳に、病室の外で話し合う誰かの声が届く。 「可哀想だと思ったが、やはりあれは化け物か」 「弱ってる内に殺しちまえばよかったんだ。その方があの母親も喜んだだろうに。今からでもどうにかならんのか?」 そんな恐ろしい言葉を聞いて、俺は慌てて病院から抜け出した。また毒を盛られて苦しむなんて絶対に嫌だ。誰にも見つからないよう家に戻り、最低限の荷物だけをまとめてそのまま故郷からも逃げ出した。俺を蔑み、罵り、憎む人間達から離れたかった。 もう俺には誰も味方がいない。情けない事に、自分がどれだけ母親に守られ、甘えていたのかを今更ながら思い知った。人間としての俺はもう死んだ。もういない。甘ったれの✕✕✕✕なんて奴はもういない。俺はエルナトだ、エルナト以外の何者でもない。今では母親に呼ばれていたその名前もよく思い出せない。
町を出た俺は以前どこかで見た地図を思い出して西へ行こうと思い立った。海を見てみたいと思ったからだ。どれだけ距離があり、どれだけ時間がかかるのかはわからない。だが他にやりたい事が思いつかなかったからどうでもよかった。 行く先々でも俺はやはり上手く馴染めず、すぐに怪しまれて逃げ出す羽目になった。大人しくしているつもりだったし、外見だって普通の人間と変わりはないはずなのに、何故そうなるのか俺にもわからない。 どこへ行ってもスピリアの居場所はないという事なのか。スピリア嫌いの王が見つけ次第捕らえるようにというお触れを出しているらしいとも聞いた。俺のような奴を気兼ねなく叩きのめしていいという大義名分は、善良な一般市民達の憂さ晴らしには都合が良かったのかも知れない。 この辺りの街道では山賊も出るらしく、巡回していた兵士に追われる事があった。背が高く厳しい顔をした男だった。声を掛けられて、逃げて逃げて追い詰められて、やむを得ず殴って逃げた。手には嫌な感触が残った。死んだかもしれないが怖くて確かめられなかった。
次の町でとりあえず空腹を満たそうとしたが、所持金はもはやパン一つ買えるかどうかすら怪しい。仕事をしようにもどう探せばいいかわからないし、見つけられたとして上手くやっていける自信もなかった。 もう盗むか奪うしかない。大人しくしていたってどうせ追われる事には変わりない。兵士だって倒せた。大抵の人間相手なら俺は力で勝てるのだからやるしかない。 そう覚悟を決めた瞬間、不意に横から腕を掴まれて顔を覗き込まれた。目が合ったが全く知らない奴だ。それだけでも十分驚いたが、次に発した言葉に俺は戦慄さえ覚えた。 「君はエルナトですね?」 何も答えず慌ててその手を振り払って逃げた。そいつは後ろで何か言っていたが、耳を塞いで町の外へ全速力で走った。各地で揉め事を起こした俺に差し向けられた追っ手かもしれない。だとしても名乗ってなんかいない。この町に来たのも初めてだ。何故名前まで知られているのかわからない。俺は混乱した。 街道から外れた森に身を潜め、岩の陰で呼吸を整える。喉が渇いていたが飲み水なんて持っていない。近くに沢はないかと耳を済ませてみた。 「逃げないでー! エルナトさーん!」 そしたら遠くからこんな声が聞こえたものだから息が止まった。驚いた拍子に喉に唾が引っかかり、思わず咳き込んでしまった。俺はまた一も二もなく逃げ出した。 しかし逃げても逃げても少し休んでいる間にそいつは猟犬のように俺を見つけ出した。匂いと足跡を消そうと橋を通らず川に飛び込んで逃げてみたが、それでも足を止めて休めば必ずそいつは現れた。隠れて様子を見ても、完全に見えていないはずなのにそいつは迷う事なく真っ直ぐにこっちに向かってきた。
流石に足は俺の方が速いようで、どうにか再び撒いて隣町に辿り着いた。ここは人も多いようだ。多少は紛れられるかもしれない。路地に身を隠し、泥に汚れた外套を捨てたところでようやく酷く空腹だった事を思い出した。ここ数日ろくに食事などしていないし、気が休まる時もなかった。なるべくここで食事と衣服の両方を得てから出発したいが、金はないので改めて覚悟を決めて盗むしかない。不安と緊張で手が震えるのをどうにか抑える。 「エルナトさん」 どうやって一度に調達すべきかと路地から顔を出すと、すぐ横ににっこり笑ったそいつがいた。目が合ったと同時に俺は咄嗟にそいつの胸倉を掴み、路地に引きずり込んで背中を壁に押し付けた。驚きと恐怖もありつつ今回ばかりは怒りが勝っていた。 「なんなんだテメェ! これ以上追い回すなら……」 追って来られないようにしてやる。俺が拳を構えると、そいつは慌てて両手を上げた。 「待って、待って待って!」 「うるせぇ!」 「私はメンカリナン、ぎょしゃ座のメンカリナン! 君の仲間です!」 その名前が記憶に引っかかり、俺はすでに振るった拳の軌道をどうにか途中で逸らして後ろの壁を殴りつけた。俺と同じ、星の名前。それがスピリアの名前だという知識があったからだ。足元に砕けた壁の破片がパラパラと降り注ぐ。 「メンカリナン?」 「そう、そう落ち着いて、君はおうし座のエルナトですね?」 「どうして俺の名前を……」 俺が落ち着きを取り戻しかけたその時、壁が破壊された音と衝撃に驚いた周囲の人達が何事かと集まってくる気配がした。メンカリナンは胸倉を掴む俺の手を慌ててパシパシと叩いて放すように促す。 「一旦逃げましょう!」 人だかりができる前に二人で一斉に路地から飛び出した。だが横目で確認すると、どう見てもメンカリナンは出遅れて囲まれかけている。 「ああ何やってんだよ! つかまれ!」 有無を言わさず奴の腰を抱きかかえて再び走り出した。危ないだの痛いだの聞こえてきたが無視した。