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←前編・ラッキーボーイ


そして、長雨の晴れたある日――戦士デュケは帰ってこなくなった。  森に残されていたのは、複数の足跡と切り倒された木、叩き割られた岩、投げ捨てられた弓だけ。

戦士デュケは敗れた。  誰よりも強いはずの戦士デュケは敗れ、無様に逃げ出した挙げ句に足を滑らせて谷底へ落ちた。  そう思うのが最も自然な状況だった。なんという間抜けな顛末。村の人間は落胆しながらも、戦士デュケを破った侵入者がそのまま森を通過していったという事実に安堵していた。

唯一、納得しなかったのがキアスだった。デュケの残した弓を担いで連日森を歩き回り、村から離れ、谷へ下りる道を見つけ、彼が落ちたと思われる川沿いを探し回った。ここには仕留めた侵入者の死体も投げ込まれる。キアスは誰かの衣服だったらしいボロ布を川から引き上げてはため息を吐き、俯せになった死体を裏返しては目を伏せた。  もちろん、デュケが生きている事を信じている。逃げ出したのではないのだと信じている。奴は弓がへし折れても戦う男のはずだと信じている。  残された弓はまだ使い込まれていない作りたてのものだった。キアスは捜索の休憩がてら戯れに弦を引いてみるが、戦士をやめて久しいキアスでは満足に引く事すらままならない。いびつで無骨、ただ遠くに飛ばす事だけに特化させたような弓。常人が使っても引くのがやっとで、まともに狙いが定められたものではない。こんなもので百発百中を誇っていたのだから、やはり彼は天賦の才を持っていたのだ。

「戦士キアス、大丈夫ですか?」  そしてようやく目が覚めた。  途端に焼けつくような痛みが戻ってくる。つんとした匂いが鼻を突き、キアスは小さく呻いて額の汗を拭った。何か夢を見ていた気がする。 「戦士キアス……いえ、姉様、薬です。飲んでください」 「わかった。飲んだらまた、戦に出る」 「もう少し休まれた方が」 「私はどのくらい眠っていた? これ以上は敵が休ませてはくれまい。この匂いは、新しい薬か?」 「はい、痛み止めです。少しでも楽になれるよう、薬師が調合してくれました」  キアスの受けた傷の様子は芳しくなかった。  侵入者の使う銃による狙撃を腹に受けていた。外界との接触をほとんど持たないマーロウ族にとって、銃は未知の兵器だった。  鉛弾が留まった体はもはや解毒も祈祷も効かず、日に日に弱っていくのみだ。それでもキアスは連日戦場に立ち、侵入者を阻み続けていた。姿を現せばそれだけで敵兵が逃げ出すのだ。 「戦士デュケが戻るまでは、私が食い止めなくては」 「姉様……戦士デュケは」 「あぁ、すまない」  匂いの強い煎じ薬をやっと飲み干したキアスは朦朧とする頭を傾け、妹ヌイの顔を見た。彼女はキアスがデュケのお目付け役をしていた頃から、彼はどんな人か、今日はどんな様子だったかとよく尋ねてきたものだ。 「……昔は姉様を妬みました。姉様は、私が戦士デュケを慕っていると知っていたのにと。しかし姉様を選んだのは彼です。それに、私は姉様のように待つ事ができませんでしたから。結局私では駄目だったのです」  痛みが和らいでいくと同時に、頭の中もぼんやりと靄が掛かっていく。ヌイの顔もよく見えなくなっていた。 「姉様、聞いてください。あなたは正しかった。――戦士デュケが、戻りました」  一瞬時が止まったかのように静まり返るが、キアスはやがてため息を吐くような静かな声で、「そうか」と呟いた。 「ならば、私は休む。この弓を……返しておいてくれ。あいつと顔を合わせたくない。あいつの身勝手に振り回されるのは……もう疲れた」 「……ゆっくりお休みください、姉様」  弓を受け取るヌイの手は震えていた。  そして、戦士キアスがそのまま目を覚ます事はなかった。

ヌイは翌日、侵入者達の陣地へ赴いていた。銃を携えた兵士達に囲まれ、司令官だという男に戦士キアスが最期まで持っていた弓を差し出し、地面に額を擦り付ける。 「戦士キアスは死にました。我々は降伏します。ですから、どうか、我々が森の片隅で暮らす事だけはお許し頂けないでしょうか」  無敵の戦士デュケを失い、不屈の戦士キアスを失い、多くの誇り高き戦士を失い、残るは怪我人と老人と子供ばかり。  この降伏は弱りきったマーロウ族の苦渋の選択だった。 「この森の解放はマードック公爵閣下直々の命令である。貴様らは交渉できる立場にないと知れ、下賎な野蛮人め」  顔を上げたヌイの眼前には銃口があった。  何もかもが遅すぎた。もっと早くに決断すべきだった。戦士キアスを失うより早く、戦士デュケを失うより早く、マーロウ族が森を閉ざしてしまうより早く。  銃声にかき消され、声にならなかった嘆きは降り始めた雨と共に地面に染み込んでいった。

「へー、その弓、僕に譲ってくれませんか?」 「はぁ?」  アンディは手にした弓を取り落としそうになりながら間の抜けた声を上げた。普段はただ話を聞いて、興味があるのかないのか「ヘーソーナンデスカ」と相槌を打つだけのデュケという名の置物が、今日は話が終わるや否や喋り出したのだから。 「だ、ダメだダメだ! 仮面のマーロウ族、戦士キアスについてはまだ調査中なんだ。実態もよくわかってないし、ていうか集落の正確な場所すらまだわかってない! いいか、これには歴史的学術的価値と夢とロマンがつまってんだ。お前絶対壊すだろ、これはお前が持ってていい弓じゃねぇんだよ」 「そう、ですね。そうでした、僕が持ってても仕方ないですね。価値わからないし、壊しちゃいますよね」  あっさり引き下がりつつも、何か腑に落ちない事があるのか、デュケはしきりに首を傾げていたが、やがて何かに納得したようにうんうんと頷いて席を立った。  アンディはその怒っているのか悲しんでいるのか読み取りづらい表情を覗き込もうとしたが、デュケはそれを避けるように背を向ける。どうやら今日は帰るつもりらしい。 「戦士キアス、弓の大きさから考えてお前くらいデカい奴だったろうな。まあお前も興味あるなら調べておくけどさ。でもその森、今はドラグレスク領で、当時滅ぼしたのはマードックで、そのマードックは今ヨキオの管理下だろ?」 「つまりは色々ややこしいんですね。でも大丈夫、僕も協力しますよ」 「お、おう。まあ調べ終わったら、この弓お前にやるよ。大切にするならな」 「優しいですね、あなたは。……でもいいんです、よく考えたら僕はそれが欲しいんじゃないんです」  そのまま足を止めず、振り向きもせず、デュケは薄暗い店内から陽の差す通りへと出て行く。いつの間に通り雨があったのか、道のそこかしこに水溜まりができていた。

敗北と恐怖を経験した。悪手を打ったと後悔する事もあった。別離と喪失感を味わった。  それを経ても尚、忘れていた人がいた。こんな気持ちを抱くのは初めてだった。不屈の戦士キアスの真の姿が明らかになる事はこれからもないだろう。 「……悪いこと、しちゃったなぁ」  水面を乱す事なく、地面に写る青空の間をまっすぐに歩き、デュケは雑踏の中へと消えていった。


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